この度は究永舎のHPをご覧くださり誠にありがとうございます。

このページでは創業者である重本孝の究永舎開校に到るまでの背景を綴っております。小中高と野球にしか力を入れてこなかった若者が、生まれてから縁もゆかりもない土地で、東大生、京大生をはじめとする難関校合格者が誕生する教室を創業するまでの物語をお楽しみ頂ければ嬉しいです。

※長いので1日ちょっとずつがオススメです。笑


[高校時代の背景]
小中高と野球に明け暮れたものの、高校の野球部において、その後、法政野球部主将を経てプロ野球選手の道をたどる友人と学校の行き帰りや、日々の練習をともにしたことで、結果的に自身の才能の無さを自覚しました。またそれと同時に、「才能がある分野」に取り組むことの重要性と、自身の努力水準が低いということは、非常にむなしい感情に繋がることをこの高校時代に学びました。


[塾講師という仕事につくきっかけ]
私は大学進学と同時に野球を辞めました。そして大学に進学する際、「4年後の社会人に向けての準備をしっかりしなければ、また高校時代のように自身の才能の無さ、努力水準の低さに嘆く日々となる・・・。しかも今度は社会人なのでそこに“卒業”というリセットはない。それだけは避けたい!なんとか社会人としてスタートを切る段階から他の新卒の人たちよりも差をつけ、充実した日々を過ごす大人になりたい。」という思いがありました。本当にこれはかなり強い思いとしてありました。そして今思い返すとそれは自身にとって非常に良いことでした。

そういう気持ちであったが故に、私は進学先が決まると同時に、中学生くらいの頃から興味のあった学校の先生を目指すことにしました。野球は辞めてしまったものの、依然好きではあったので、「できれば高校野球の監督なんかできたら面白そうだな・・」くらいのことを考えておりました。

そんな大学生が考えそうなアルバイトとして、ごく自然な流れではないかと思うのですが、私はそこではじめて“塾講師”という仕事に関心を持つこととなります。もちろんこの段階ではあくまで学校の先生としての武者修行のつもりでしかありませんでしたが・・・


[19歳:学生講師として先生デビュー]
2000年2月。当時のアルバイト情報誌、フロム・エーで一番面積の大きな広告を出していた塾に私は講師アルバイト希望の履歴書を送りました。その塾の名前やどんな会社であるかなどは一切知らず、また気にもしませんでした。「ここに応募しよう!」となった決定打は“広告が一番大きかった”、ただそれだけです。

その後早速、採用試験として学力試験と面接を受けにくるよう言われた私は新品のスーツに身を包み、指定された教室へと向かいましたが、到着後、ものの30分と経つことなく私は絶望を味わうこととなります・・・

それはなぜか?

なんのことはありません。学力試験が全くと言っていいほどできなかったのです。笑

中学時代までは人並みに勉強もしていた私ですが、その脳は高校3年間で完全に脳筋と化し、採用試験の現場で課された中学3年生の英語の模試の問題が全く分からなかったのです。おそらく半分程度はある程度考えて埋めはしましたが、残りについては、ほぼほぼテキトーに埋めた記憶があります。

そして結果は・・・・まさかの採用!(なんでやねんっw)

そんなわけで、よく分かりませんがこうして幸運なことに私は希望通り、学生講師としてこの仕事のキャリアをスタートすることとなります。

ちなみに当時、採用試験の帰り道に立ち寄ったマクドナルドで会った友人相手に、あまりの自身の学力の無さに「やっぱ俺なんかが教える仕事やったアカンわ。うわはは。」みたいな会話をしていたくらいだったので、もしこの時に普通に落とされていたら今頃この仕事はしていなかったでしょうし、ましてや究永舎も絶対に存在しなかったことを思うと、やはり人生って何がどうなるか分からないものですね。笑

[20歳①:迫り来るターニングポイント]
そんなわけで学生アルバイト講師として船出をしたわけですが、とにかく1年目は全く戦力になっておりませんでした。毎週月曜に小学生の国語、それと中学2年生の英語と国語を担当させて頂き、あとは講習中に他の学年の文系科目をちょこちょこ担当するという感じでした。当然授業は下手クソです。毎回電車で教室へ向かうわけですが、最寄駅が近づくといつも胃のあたりがズーン・・と重たくなっていました。当初は特に理由もなく「2年くらいやろう。」と思っていたのですが、あまりの責任の重さに「ちょっとキツイな・・」と感じ始めておりました。

そして2年目、すなわち私が大学2年生になるタイミングで事態は急変します。

結論から言うと、教室で唯一の英語担当の社員さんが他校舎へ転勤になられたのです。1年目にすごくお世話になっていたので聞かされたときは非常に驚きましたが、その次の知らせに私は頭が真っ白になりました・・・

私「次年度はどんな方が来られるんですか?」

責任者「え?来おへん。」

私「????」

責任者「お前でいく。」

私「え、、え??無理ですよ!だって僕、中高と一番苦手やった科目英語なんですけど・・・」

責任者「お前中学出てるよな?」

私「は、、はい。」

責任者「ほなイケる!頼むぞ!」

私「」

確かこんな感じのやり取りの後、手渡された次年度の時間割には月曜〜金曜までは17:00〜22:00、土曜は14:00〜22:00まで私の名前が入っておりました。当時の感情は今なお思い出すことはできません。ただ、授業準備などのことも考えると「大学は出れて3限までやな・・」と考えた記憶だけは残っています。もちろん後々全く行かなくなるわけですが。

そうしている間に新年度が始まります。・・・が、これがまぁ〜〜〜〜〜〜生徒さんにはウケません。全くウケません。「このままじゃオレはクビやな、いや、むしろ早くクビにして欲しい・・・」そんな心境でした。

当時責任者の方は「とりあえず春期踏ん張れ!」「夏期まで踏ん張れ!」「夏期踏ん張れ!」という感じで支えて下さったのですが、やはりこの仕事において生徒さんから支持されないことほどツライことはありません。とにかくツラかったです。

そんなワケで、夏期が終わり、中学3年生の子たちも教室全体もいよいよ本格的に受験モードに突入!というタイミングで私は後にも先にも一度だけ「自分を外して欲しい」といった趣旨の発言を責任者の方にしてしまいます。

私「あの・・。自分はまだまだ経験もありませんし、学力も足りなければ学校の定期テストや入試問題にも精通していると言えません。」

責任者「ああ。」

私「中学3年生だけでもどなたか社員さんに担当を代わって頂くことはできませんでしょうか?」

責任者「・・・。」

私「・・。」

責任者「お前。裏(職員室のバックヤード)に全部の中学の過去問と赤本あるの知ってるよな?」

私「はい・・。」

責任者「それ全部やった?」

私「い、・・いえ。」

この後の展開はご想像通りなのではないかと思います。本当にチビりそうなほど怒られました。というかチビっていたかどうかも記憶が定かでないくらいに怒られました。そしてそれでも私は「クビ」にはなりませんでした。・・なれませんでした。



その次の日に気分重たく出勤すると事務パートの女の子が何やら延々とコピー機でひたすら印刷をしています。あまりに長時間コピー機を占領するので、そろそろ譲ってよという気持ちで「まだ(コピー機)使う?」と尋ねますと、その子は私に「○○先生(責任者)が重本くんに、これ『全部コピーして渡せ!』って言うんやもん。」と。

彼女の手元を見ますとそれは大量の中学校(7、8校分)の定期テストでした。

「や・・、やるしかないんか。」腹をくくるというのは格好のいい言い方で、そのときの私の心境は「観念する」みたいな感じでした。

今思えば、自分ではそれと気づかずに少しずつ塾講師という沼にハマっていっていたのは確かこの頃くらいからであったように思います。もちろんこの頃は自分ではそんなつもりは1ミリもありませんでした。

まだまだ教室に向かう電車の中では胃のあたりがズーン・・でした。


[20歳②:ターニングポイント]
相変わらず授業は下手だし、生徒さんからの支持も全然です。しかし若いとは有難いことでして、そんな私にも「先生!先生!」と話しかけてくれる生徒さんも少しずつ増えてきていました。しかしこれまたそのことが余計に自分の無力さに対する罪悪感を自分の心の中で際立たせるのでありました。年に数回あった学生講師研修などで南大阪から本部のある西宮の方へ行きますと、そこにはおよそ同い年や1つ2つ違いとは思えないような自信に満ち溢れ、生徒アンケートの数字からも明らかに生徒さんの圧倒的支持を得ている学生講師の方々がたくさんおられ、本当に自分が情けなかったのをよく覚えております。

ただ、この頃になると先の定期テストを解いた量もかなり増え、教科書を見ればどの箇所がどの時期のテストにどのような形で出題されるのかというのは瞬時に見当がつくようになってきており、授業中に話す内容にも少しずつ「絶対に点につながるから、頼むからみんなこれ頭に入れて〜!!」という風に塾の先生っぽいテンションには自分としてはなってきていたと思います。

しかしそうは言うものの、いかんせん、私の周りには英語の社員さんがおられません。当時はまだまだ動画で他の先生の授業を見られるような環境ではありませんから、自分で自分の授業を評価するというのも、それはあくまで自分の中での良し悪しだけであって一般的に、良い授業とされる水準というものを全く分かっていない自覚がありました。

この頃になりますと、先述のようにほんの少しではありますが、“プラスの要素”が自分の中にほんのりと感じられる場面もあり、これまでの、胃のあたりがズーン・・・状態から、やや前向きにもっと頑張らねば・・という心境になっていたのです。

簡単に言えば向上心が芽生えはじめていたのです。

そこで私は思い切って責任者の先生に、「可能であれば、一度、評価の高い英語の先生の授業を見学しに行かせて頂けないでしょうか。」とお願いしてみたのです。

するとその先生はスグに当時他校舎の責任者であられた、ある社員さんに電話を入れ、授業見学の段取りを組んで下さったのです。


授業見学当日、まだ実家暮らしであった私は最寄の南海高野線金剛駅から、指定された教室のある阪神鳴尾駅まで電車に揺られることおよそ1時間半、緊張しながら向かいました。

到着しますと現場の職員さんはみなさん暖かく迎えて下さり、私は授業が行われる2Fの大教室の一番後ろの座席に座って見学するよう指示して頂きました。

見学させて頂いたクラスは中学2年生の中位クラスです。さあ、いよいよ授業が始まります。授業内容は不定詞の様々な構文についての授業でした。

そして見学することおよそ2時間。

結論から言うと、何の感想も言えないくらい、ただただ圧倒されて終わりました。

私は高校時代の野球部日誌の延長で今でも日記をつけているのですが、当時の日記を見ますと、あまりにショボい細かな感想が立ち並んでいます。いかに自分が低レベルであったかが分かります。いわばド素人がプロのプレーを見てもその何がどう凄いのかが言えないのと同じです。

授業見学を終え、シンプルに茫然としました。

さらにその後、「せっかく遠くから来てくれたから。」ということで、その英語の先生と、当時まだ新入社員であった数学の先生のお2人に連れられて、焼肉をごちそうになりました。

肉を焼きながらの会話は今でも覚えています。

英語の先生「重本は将来はこれ(塾講師)で食べていこう思てんのか?」

私「はい。」(実は全くそんなつもりはなかったのですが、授業で圧倒され過ぎて、心理的に「いえ。」とはとても言えなかったのです。)

英語の先生「そうか。英語やったら高校受験と大学受験あるけどどっちがええとかある?」

私「高校受験です。」(頭真っ白過ぎて、もはや全部テキトー)

英語の先生「高校受験の最高峰ってどこか分かる?」

私「・・・。な・・、灘でしょうか?」(危うくPLって言うところ・・)

英語の先生「そうやな。灘の問題やったことある?」

私「すいません。まだ、ないです。」

英語の先生「そうか。ほな今もう赤本出てるから一回灘の赤本買ってやってみい。」

私「はい。」(しぇーーーーーーーーーー)

英語の先生「あのな。この仕事やっていこう言うてて、人間やし、うっかりとかそんなんあったとしても自分の担当科目の灘の問題で9割取られへんやつはウソやぞ。なあ?○○(数学の先生)。」

数学の先生「そうですね。」(この方も若い頃からエグい方)

私「」

焼肉「ジューーーーーー」

食後、西宮北口まで車で送って頂き、その後電車を乗り継いで帰路につくわけですが、頭の中はボーっとしたままで、なんとか難波までたどり着いて、そのあたりでようやく緊張感が解けて冷静になってきたように思います。難波から和歌山方面に向かうにつれ、徐々に見慣れた田園風景が車窓の向こう側に広がります。この頃になるとその日の疲れも出てきて、さらにボンヤリする頭の中では・・

「○○さん(英語の先生)に教えてもらえる生徒と俺に教わる生徒が同じ学費・・・」

・・・。

「俺・・、このままやったら・・・・詐欺、や。」みたいな感じでした。

翌日、なんばグランド花月前の、今は無き、なんばジュンク堂書店で灘の赤本を買って平成12年の問題をやってみると、せいぜい30点前後程度でした。

20歳にして罪悪感なる言葉のニュアンスを完全に理解した瞬間でした。

[20歳③:自分は学校の先生に向いてない!?]
時は前後するのですが、実は先述の授業見学より以前に、私は当初の「学校の先生になる。」という目標を自分の中で破棄しています。

理由は2つあります。

1つは単純にアルバイトがフルで入ってしまい、大学の教職課程の授業に物理的に出席できなかったことです。ただこれは3年生になっても取ろうと思えば、そこからでも取れる設定だったので決定的な要因ではありません。

次に2つ目です。個人的にはこれもいまだによく覚えている先輩とのやりとりです。その先輩というのは授業見学の後に一緒に焼肉を食べに行った数学の先生です。

そう、あれは夏期講習の合間のお盆休みに社員の先輩方に連れて行って頂いた旅行帰りに立ち寄った千里中央にあるラーメン屋さんでのことです。

先輩「シゲは将来やりたい仕事とかあんの?」

私「学校の先生やりたいな思ってます!」

先輩「そうなん!?シゲはやめといた方がいいかもせえへんな〜。」

私「えぇ、なんでですか!?!?!?!?」

実はそれまで中高と将来は学校の先生やってみたいと言うと、全ての先生から「向いてるから絶対やった方がいい!」という返事しかもらったことがなかったため、この先輩の反応には相当動揺してしまいました。しかしその数秒後に私は「ああ、オレ学校の先生はないわ・・」と完全に思ってしまいます。

先輩「シゲは20代、30代の校長先生って見たことある?」

私「ないです。」

先輩「そうやろ?学校ってそういう世界やで。オレらがやってきた野球やったら1年生の4番もエースもありやし、プロ野球でも1年目からレギュラーとか20代で年俸1億とか普通におるやん?」

私「た、確かに。」

先輩「シゲの場合、そういう年功序列みたいなんキツく感じるんちゃうか?」

私「う〜ん・・・」

とまぁ、こんな感じです。

で、お伝えしたように、結果としてこの会話で私の中で「学校の先生になる」というのはなくなりました。ちょうどその頃はニュースで学校で生徒が女性教師のお腹を殴って死亡させるといったような事件が報道されており、怖い・・というよりも、そういう生徒、いわゆるヤンキーとかそういう人種と関わる可能性に対して疑問をほんのり感じているタイミングでもありました。

まとめると、自分は、①年功序列が嫌いで、だいたい何歳で年収いくらみたいなのが予想できるのも好きではない。②ヤンキーとかそういう人の力になってあげたいというよりは関わりたくない。

私にとっては、この2つのポイントだけで「学校の先生は自分はやめた方がいいか・・・」となるのに十分でした。

そんな心理状況もあっての先の授業見学の衝撃でした。

20歳の夏から秋にかけて、ちょっとずつ思っていたのとは違う進路方向に人生の舵は切られていくのでした。

[20歳④:徐々に構築される価値観]
今これを書きながらつくづくと思うのは、人はやはり人との出会いで変わるのだということです。塾選びもやはり担当者で選ばないと意味がないと思います。あの当時、何も知らない自分が、「高校受験を指導するのに灘の問題ができんようなヤツは人ではない」という価値観の先輩方と出会っていなければおそらく究永舎も作るに至っていないです。ましてや東大京大への進学者が出る教室には絶対になってないと思います。

話を当時に戻します。

学校の先生を目指すのをヤメにした当時の私の原動力は間違いなく『罪悪感』でした。自分の実力が一般的な塾講師よりも劣るのは明らかです。それでも当時の生徒さんは毎回私の授業に通ってくれる。

「やばい・・、なんとかせなアカン!!!」

そんな気持ちで過ごす日々でした。

また、それと同時に「ではどういう先生になればいいのか?」という、いわば自身が目指すべき先生像というのを意識し始めたのもこの頃でした。

一般的に『いい先生』として求められるのは、金八先生やGTOの鬼塚先生、現実で言えば、夜回り先生などのようにいわゆる「生徒に寄り添う熱血系」がその代表ではないかと思うのですか、誤解を恐れずに言えば、個人的にはそういった先生像は魅力的には映りませんでした。まずそもそも自分には絶対にできないと思いました。(ちなみに金八先生は風間くんの回は大好きでしたし、GTOも全巻読みました。)

逆に灘の入試問題を見てからというもの、これを中3でできる子ら、俗っぽい言い方をすれば“天才児”を指導するその先生方ってスゴイな、と気づきはじめておりました。

どれだけ生徒を思う気持ちがあったとしても、東大や京大を目指す子たちから先生と認めてもらうためには気持ちだけではどうしようもないです。まずは確かな学力がなければ、そういった生徒さんからすればその先生は使い物になりません。

それに、東大や京大なんか全く考えていないどこにでもいる一般的な中高生の子からしても、

A先生
「いや〜、灘とか東大京大受かる子なんか指導したことないし、そもそも入試問題難し過ぎるわ・・・。ただ君らみたいな勉強嫌いな子を指導するのは任せなさ〜い♪」

B先生
「東大京大だろうが産近甲龍だろうが任せなさい。え?公立高校の入試問題?うん、赤ちゃん・・・ていうか、それ、もはや胎児レベルやね。」

という2人の先生だったらどちらに習いたいでしょうか。少なくとも私だったら絶対に後者の方に習いたいと思います。

先生という立場からしても「東大京大目指すレベルの子はさすがによう教えんな〜・・・」とは言いたくないです。それはやはりどんな生徒さんに対しても申し訳なく思います。

いや、もはや生徒さんや保護者様がどう思われるかではなく、少なくとも私の中ではそれは嫌だったのであり、その価値観は当時から今でも変わりません。

そんなわけで、この20歳の頃から私の中での理想の先生像は「灘や東大京大を目指す子から一般的な子に到るまでの全ての層から支持され、余裕を持って指導できる先生」に設定されました。繰り返しになりますが、これはその後20年近く経った今でも全く変わりません。

この頃から新入社員1年目くらいまでは寝ても覚めても学力を伸ばすことだけに集中していました。スタートがヘボ過ぎたのも痛かったのですが。笑

ただ、相変わらず生徒さんからは全然支持されておらず、この頃はまだまだ独立の「ど」の字も頭にはありませんでした。

[21歳:1年間で1回も笑いが起きなかったクラス]
20歳になった2001年がターニングポイントとなった話を書きました。本当に人との出会いは大切です。そしてもう1つどうしても書いておかなければならないのはやはり生徒さんとの出会いです。

特に思い出深いのは20歳の頃に担当させて頂いた受験生、つまり中3生の子たちです。

決して全員から受け入れられていたわけではありませんが、それでもそれなりに慕ってくれる子もおり、それが私としては非常に有り難かったのです。実際究永舎開校後にわざわざ教室を訪ねてくれた子もおり、どう考えても当時支持者ゼロであればさすがに今は別の仕事をやっていたことでしょう。

と、まぁ、一見上向いてきたような感じを持ってして私は学生講師2年目を終えることができました。

しかし、今思い返しても学生講師時代に一番キツかったのはどう考えてもその後に始まる3年目でした。

2年目を終えた段階で、ひとしきり小4〜小6の中学受験のクラスと中1〜中3の高校受験のクラスの1年間を体験した私はこのタイミングで持ってはいけないちょっとした心の余裕を持ってしまいます。今思えば完全にただのアホです。

2002年シーズン。私の学生講師3年目に担当させた頂いた中3の学年は前年度の学年とは全く雰囲気の異なる学年でした。

しかしそれにも関わらず “講師としての引き出し” がほぼ皆無な私は前年度の学年のときと同じノリで生徒さんたちと接してしまいます。これは言わば、高速と街の小道を同じ運転で走ろうとするようなものです。

待っていたのは大事故でした。

これは今でも私の持論ですが、先生は嫌われてはいけません。理由は単純で、嫌いな人間の言うことなど、どれだけそれが正しくとも聞き入れることは難しいからです。先生は嫌われた段階で終わりです。挽回の余地はありません。

しかし当時の私は、とにかくいろんなタイプの学年や、いろんなタイプの生徒さんに適した接し方をする引き出しが全く足りてませんでした。お風呂の湯加減でいうところの年間通じて43度しか入れられない感じです。たまたまそれがジャストフィットの人にはいいのですが、人間はときと場合で同じ温度でも熱かったり、ヌルかったりするものです。しかし私にはお湯加減を調整することができなかったのです。引き続きの実力不足です。前年度の学年は本当にたまたま私と波長の合う子が一定数いただけです。

結果、当時の中3クラス、特に中位クラスからはクレームを頂いて、生徒さん・保護者様・社員さんにも迷惑をかけ通してしまいます。今思い返しても本当に恐ろしいことですが、生徒さんが20〜25人くらいいるそのクラスで、結局笑いは1回も起こりませんでした。

授業アンケートなども1年目2年目よりもさらにヒドかったです。この頃のアンケートというのは今でも当時の日記にホッチキス留めで保存してあります。とにかく生徒さんにはツライ思いをさせてしまいました。

そんな形で21歳、2002年シーズンが終わりに近づく頃、いよいよ進路を考えなければならないタイミングで私は教室責任者の方から尋ねられます。

「お前、○○(会社名)に就職する気あるんか?」

正直私は何も考えておりませんでした。
本当に全く何も考えておりませんでした。

そんな私の返答は






「はい。」






・・・。

・・・。

・・・。

体育会系の悲しい性(さが)です。笑

先輩にふられた話には「ありがとうございます。」と「はい。」しかコマンドがありません。当時の会社は “トウショウニブニジョウジョウシテイル” 会社であるというのは知っていましたが、いかんせん「東証」も「二部」も「上場」も当時の私にはその概念すらありません。「トウショウニブジョウジョウ」はただの音の響きでしかなかったのです。さすがに3年もアルバイトをすれば西宮・宝塚における最大手塾であるというのは分かっていましたが、会社全体としてどういった会社でどこにどんな教室があってなどは全く分かっていませんでした。

なのに返事は迷うことなく「はい。」でした。今思い返しても意味が分かりません。

そんなワケでいよいよ私の入社に向けた就職活動が始まります。

と、いきたいところですが、実際はそうはなりませんでした。

2003年3月のある日。実家に学校から成績表が届いており、中を確認致しますと「不可」だらけの成績表の最下部の備考欄にはこう書かれてありました。



“留年”







[22歳:ほんのり芽生える独立心]
2003年。そんなわけで2回目の3年生です。(恥) 決まった以上は時間を有効に使うしかありません。このときの中3生は私が講師として初めて3年間ずっと担当させて頂いた受験生です。引き続きホントにいい子たちばかりでした。ただ、相変わらず塾講師としての私の力量は乏しいままです。しかしそれでも生徒さんは中1当初の15人弱くらいからこの頃には40人弱くらいにまで増えていました。大手塾恐るべしです。笑

この頃になるとさすがに3年間、しかも私の場合は2〜3年目は教室が開いているときはほぼ毎日出勤していたので、おおよそ“塾の1年間”や“中学生の各学年の1年間”の流れというのは把握できておりましたし、様々なクラスを継続的に担当させて頂いたことで、塾というのは生徒さんの入塾・退塾によってクラスが大きく変わってくるということを体感しておりました。

そして実はそのことが“将来の独立”という方向への、ちょっとしたキッカケになったのは間違いありません。

と言いますのも、繰り返しになりますが、クラスというのはホントに1人の生徒さんの入退塾で変わるのです。クラスとは生き物なのです。そういった意味で私としては、中3くらいになったら、言い方は悪いのですが、クラスの底辺を押し下げるような生徒さんに入塾して頂くのは誰のためにもならないと当時から思っておりました。しかしそこは何の結果も出していてない学生講師の立場です。明らかに学力的についてくるのが厳しい生徒さんが入塾してきてもどうすることもできませんし、もちろん社員さんに意見をするなどというおこがましいこともできません。

ただそんなこともあって、この頃くらいから

「もし自分が教室の責任者になったらどうするか?」

「でも会社組織では時間割1つとっても完全に自分の好きなようには組めないな・・・」

などといったことをぼんやりと意識するようになっていました。そうです。「将来自分で教室持ったりなんかしたら面白いかもな〜」などと考えはじめていたのです。実力は全然ないクセに・・・。

そんな折、教室責任者の方が突然こんなことを言い出しました。

責任者「おい!お前の今の学力確認したいから今度こっそり社員と同じテスト受けろ!」

私「はい。」(きゃーーーーーーーー)

確かにこの頃になりますと公立高校入試レベルの英語においては(当たり前ですが)苦労することはなくなっておりました。ただ社員の受けるテストというのはこれまた当たり前ですが、難関国私立高校入試レベルです。不安ではありましたが「いやです。」の返事はありえません。後日、私は会社には内緒でこっそりと受験させて頂き、全体のテスト監督者である、以前に鳴尾で授業見学をさせて頂いた先生から私も含めたテスト結果の“闇ランキング”を頂きました。

結果は予想通りの最下位!!!・・・ではなく、下から2番目というものでした。

最下位の方は元々数学の優秀なベテランの先生で、「数学飽きて、最近英語勉強してるから今回は英語受けてみよ♪」みたいなノリだったみたいです。


「実質お前が最下位や!(苦笑)」

責任者の先生からの言葉に、恥ずかしいやら申し訳ないやら情けないやらと、本当に「穴があったら練炭とともに入りたい」とはこのときの言葉です。

もし奇跡的に当時の生徒さんがこのページをご覧になられるようなことがあれば心の底から申し訳なく思います。許して頂きたいとも申しません。申せません。。。。(涙)

それでも、留年もしたとはいえ、この頃には私の気持ちは「入社する」ということで固まっていました。ただ、「こんなのでホントに入社させてもらえるんかな・・・」という一抹の不安は常にありました。

そしてその不安は次の春で見事に的中することになります。



[23歳①:就職活動]
留年から早1年。最終学年を迎えるタイミングで私にもついに就職活動の季節がやってきます。頭の中の記憶はやや曖昧ですが、この当時の日記を見ますと、

「36歳で独立する!」(なんでこの年齢なのかは今もって不明だし結果的に26歳で独立。)

「眺めのよい教室でやりたい!」

「灘、東大、京大に合格者が出る教室を創る!」

などと威勢のいい言葉が並んでおりますので、この頃にはだいぶ将来の独立願望は高まっていたんだなと分かります。

ただそれと同時に、自分には独立どころか、1講師としての十分な力すら無いことは明らかでした。

「まずは会社員として戦力にならなければ独立など夢のまた夢・・・」そんな風に思っていたのは間違いありません。

そこで就職活動です。

以前にも書きましたように、当時の教室責任者の先生は、私がそのまま入社を希望していることは分かっていますから、「とりあえず会社説明会参加してこい!」とのことで、私は上本町にある予備校部門の大教室で開催された会社説明会へ行くこととなりました。

会の最後に司会の方から、「今日来られた方には、次回以降のスケジュールをまたメールで送信させて頂きます。」とのことでしたので、私としては「ああ・・、いよいよ始まるな・・、ホンマに就職できるんかな・・」という感じでした。

で、次の段階として私に与えられたミッションは・・・

“次回以降は来ないように。”

ということでした。

つまり試験も面接もなく不合格です。笑

いや〜、これはもう今書きながらも笑いが込み上げてきます。笑笑

こんなヤツいます?

そこに至るまでの直近の3年間時給が発生しようがしまいが教室が開いてるときにはほぼ全部出勤してたアルバイトで、入社希望したら秒で断られる人。

確かに、学歴もなければ、学生講師として何の結果も出していないので、入社を断られること自体は想定していなかったワケではないです。

ただ入社するなと言われた以上、「オレ、明日からも学生講師として現場で授業していいんかな〜??」というのが一番強い気持ちでした。

そして、世間一般の常識では私のその大手塾への就職活動というのはもうここで終わりになるはずなのですが、実はここからが本番と言わんばかりに私のこの就職活動は話が展開していきます。

私を最終的に「取らん!」と決めたのは当時の時期社長候補の方で、私のことを全く知らない方(私もお名前だけで全然面識のない方)だったのですが、それに対して、私のことを知る上の役職の方や、その部下にあたる教室責任者の方、さらに以前授業見学でお世話になった方たちが私の入社を会社に強く掛け合って下さったのです。

私は当時、学生講師の立場でしたので、実際に社内でどのようなやりとりがあったのか詳しくは知らされませんでしたが、その後の流れを時系列に書きますと、

一度不採用を知らされたにも関わらず、その後の人事課からの連絡で言われるがままに筆記試験と面接を受けに行く。→ 不採用通知 → 上の役職の方が入社を再度掛け合って下さる。→ 人事課から指定の期日に模擬授業を採用担当者の前で披露するよう連絡がある → 私を仕上げるために鳴尾から当時私が働いていた大阪南部の河内長野まで先輩方が仕事後にかけつけて深夜まで指導して下さる。→ 時期社長候補の方含む選考者の方々の前でいざ模擬授業披露。→ 不採用通知 → 上の役職の方が入社を再度掛け合って下さる。→ 今度は指定された課題を題材にして模擬授業を披露するよう人事課から連絡を受ける。→ 当日指定された西宮の予備校部門の最上階の教室で、社長と経理部門の方をのぞく時期社長候補の方をはじめとする全役員と会社内の各教科のトップの方々総勢10名前後の前で模擬授業を披露・・・

そして・・・、入社内定。(私が不甲斐ないばかりに多くの社員さんに大変なご迷惑をお掛け致しました。)

最終の模擬授業披露後、時期社長候補の方に私は別室へ連れて行かれ、そこで1対1でこのように話されます。

「とりあえずあそこ(模擬授業現場)にいた者みんなで『頑張ってるから取ったろう』いうことになりました。ただ君がウチの一般的な社員の力になるには最低でも3年は掛かる。だから他の社員が仕事後に『飲みに行こう』『カラオケ行こう』みたいになっても君は絶対に行ったらダメや。仕事の時間外も君はとにかく必死に勉強せえ!それでやっとウチの平均的な社員のレベルになれるかどうかや。それだけは分かっといてくれ!頑張ってくれよ!」

いやはや書きながら懐かしいですね。笑

余談ですが、当時の上役の方で面接の段階からお1人だけ私を「採用にしよう」と言って下さっていた方がおられたというのを後に知らされました。その方は最初の面接と、最後の模擬授業の2回お会いしたのみで、直接お話しすることすらなかったのですが、内定決定後に直筆で、「とにかく結果を出して自信をつけろ!」「10年後に会社を背負う人材になってくれ!」という激励のお手紙を下さいました。

その方は2020年段階で社長に就任しておられるので、結果的にはご協力できずに心苦しく思っております。

ちなみに当時私の入社にお力添え下さった社員の方々は、教室責任者の方以外はみなさん現在もうすでに会社にはおられませんが、言うまでもなく今でも大変感謝しております。

ざっとこんな感じで、ついに私の大手塾への内定が決まり、学生生活終了へのラストイヤーが始まります。

私にとって、独立開業への意志を揺るぎないものにする大きな出来事を1つ残して。

[23歳②:全国レベルを知りたい]
予備校講師も含めた塾講師というのは、人並み以上に稼ごうと思えば、基本的には林修先生に代表されるような全国の受験生に授業を聴講してもらえたり、参考書を出版するような講師を目指すか、自身の教室を開いていく方向を目指すかの2択です。

先述のように、この頃には独立する方向でおおよその意思は固まってはいたものの、そもそも自分自身が講師としてまだまだであるという自覚が強く、まずは自身のその点における不安を拭い去りたいという思いが大きかったです。

野球をやっていた経験から、どんなジャンルであっても、まずは最低でも全国レベルというものを知っておくことが重要であると私は当時から考えておりました。

ただ受験講師の全国レベルとは何を持ってして全国レベルというのだろうというのはおそらく人によって微妙にその定義は異なり、またそこに正解はないはずです。

そういうわけもあって、あくまで個人的な全国レベルの定義ではありますが、私はそれを、『誰が見ても、全国最高峰の受験生から支持されていると言えるレベル』であると考えました。この考えは今も変わりません。

そしてやはり全国最高峰と言えば灘高校であり、さらにその中においても理科Ⅲ類に合格するような生徒さんから支持を受ける講師というのが当時も今も私の中での全国レベルの講師です。

多くの先輩方にご協力頂いた末に内定を頂いた私は、その次のステップとして、今後の大きな目標となるような、先ほど述べた全国レベルの先生の水準を知りたいと思うようになりました。

実は私が就職させて頂いた会社を希望した理由の1つに、その灘の最高峰の子たちが支持する英語の先生と物理の先生がいらっしゃる会社であったからというのがありました。

そんな折、たまたま私の中学時代の同級生で、当時の天王寺高校の理数科から京大の工学部に進学した友人がおり、その友人の部活の後輩で灘出身の医学部の人も交えた3人で食事に行く機会があったのです。

そこでその友人の後輩の方曰く、当時の灘では、前に述べた英語と物理の先生と、あと他塾で今は引退されている数学の先生というのは学内の評判も別格で、実際にその後輩の方も、受験生の頃はその3人の先生の授業を受講されていたということでした。

興味津々でその方が受講した当時の英数物の授業の様子をお聞きするうちに、私はどうしても実際にその授業を見てみたくなりました。そこで早速、私は英語の先生の東大京大クラスの授業見学をさせて頂けませんかという旨のことを人事課の方にお願いしてみたのですが、どうも返事はかんばしくありません。

「やっぱりまだこんな実力もない若造では受け入れてもらえないかな〜・・」と諦めかけておりましたところ、夏期講習明け頃に思ってもないような形で、念願のその授業を見学させて頂けることとなったのです。

場所はJR住吉駅にある校舎で、見学させて頂けるクラスは高2の灘の子たちだけの最上位クラスと、高3の灘13人、神女3人の最上位クラスです。

当日少し早めの到着で、その日お世話になる、就職先である会社の英語科の責任者でもあるその先生にご挨拶させて頂き、授業時間が近づいた頃に一緒に教室へ移動し、早速授業が始まりました。

しかし授業開始から1分。。。。

私は現場にノコノコやってきてしまったことを激しく後悔するのでありました・・・



[23歳③:学生講師終了。]
授業開始から1分、と書きました。いやいやそれはいくらなんでも大袈裟だろうと思われるかもしれません。しかし実際は数秒であったとも言えます。

その日の授業は前回の長文の途中からというものだったため、担当の先生は「最初ちょっと前回までの流れを文章を読んで確認しましょう。」と生徒さんに話すや否や、さらっと音読をされたのですが、その音読が、私が知る日本人の話す流暢な英語のはるか彼方にある、聞いたことがないくらい「日本人では話せないはずの英語」だったのです。

今では時代も変わって各種有料無料の様々な動画サービスや、SNSなどに個人で上げた授業動画などがありますが、やはり15年前の衝撃を越えるものはありません。

このページはあくまで究永舎という塾が開校されるまでのお話なので、より詳細な授業描写(知り合いの講師には100万回くらい語ってます)や当時の私の細かな心理描写は割愛し、当時私が導いた結論だけを書きますと、

「この人に勝つためにはまず同じ土俵に立ってはダメだ。」

というなんとも情けないものになります・・・

とどのつまり、自分が一科目だけの講師として、受験生の一科目に特化するスタンスで行くのではなく、受験生への総合演出でもってしてそのトータルの価値で勝負していくことを目指すことにしました。

自分で教室を持って、設備面や雰囲気も含めた学習環境を整え、複数科目の授業もし、その生徒さんの授業外の様子もできるだけ把握し、懇談などを通じて保護者様のご不安を少しでも和らげ、成績推移、進路指導、志望校選定までトータルで1人の生徒さんの受験をプロデュースするという価値提供でもって勝負しよう!という結論、つまり、やはり将来は絶対に独立して自分の教室を持とう!という結論が完全に固まったのでした。

結局、私はそれから半年後に入社し、3年勤めた後に究永舎を開校するわけですが、究永舎のような小さな教室から北野はもちろんのこと、灘、東大、京大といった最難関校に合格者が出たのは、一番の要因はもちろん生徒さんの圧倒的な努力ですが、学生講師の頃にそういった水準の受験を指導する先輩方からの強すぎるまでの刺激があったことが非常に大きかったと今でも思います。

やはり師は圧倒的に大切です。


さて、まずはここまでお読み頂き誠にありがとうございます。

次回からは[社員編]になるわけですが、ここまでお読みになられてお分かりの通り、私にとって学生講師時代の5年間というのは結局1度も講師としての自信をつかむことはなく、今もどの角度で当時を振り返っても情けないやら、当時の生徒さんには力不足の先生で申し訳ないやらといった気持ちでいっぱいです。

そんな私が入社後、一体どうやって会社を辞めて教室を作ろうという気持ちになるきっかけをつかんだのかが次回以降のメインとなります。

よろしければ引き続き少しずつお楽しみ下さい。


[24歳①:講師として決定的に足りなかったもの]
社員として働き始めた私はそれまでの南大阪から活動の拠点が西宮になりました。当時担当していたのは西宮北口駅から徒歩15分程度の教室とそこからさらに自転車で10分程度の阪神鳴尾の教室でした。

当時、水曜日などは18時45分に中学受験の6年生のクラスを終え、その後、保護者様と10分前後お話して、そこから自転車で鳴尾に向かって19時15分から中1の授業をするという感じでした。しかもその中1クラスはビルの4階だったので、夏場などは本当にヤバかったです。今ならたぶん授業はできてません。笑

この頃になりますと、まず高校受験の指導者としての学力的な問題はだいぶ解消されてきていました。当時の勤め先では半年に1回ずつ前期後期で講師たちの学力を測る実力試験があるのですが、1年目の前期で、すでに社員平均を越えることができておりました。やはり勉強は毎日コツコツがベストウェイです。笑

ですが、今思えば私は講師としての自分自身の能力に一番疑い・不安を持ったのはこの時期でありました。

と言いますのも、学生講師時代の私と言えば、まずは学力不足・経験不足からスタートし、かつ、当時担当していた生徒さんは学力・やる気ともに低めの生徒さんが多かったのも事実でありました。しかし社員になってからは学力も一般的な塾講師のそれを越え始めておりましたし、また、学生講師の間に多くの生徒さんを担当し、経験値もそれなりに積んでおりました。それに加えて何よりも、社員になってからというのは灘や甲陽(今は高校受験廃止)、関学などを中心とした難関校を目指す生徒さんを中心に担当させて頂いていましたから、言うまでもなく生徒さんのやる気も十分です。

にも関わらず・・・

にーーーーーーーーも関わらず・・・

私の前期の生徒アンケートは散々たるものでした。

前に述べましたように、私は入社の経緯が経緯でしたので、とにかく結果を出さなければというプレッシャーもありました。

それでその結果なわけです。

当時の日記には「学力・経験もそこそこ積み重なって、生徒もやる気があってこの結果では、そもそもの自分のこの仕事の適正に疑問を持たざるを得ない・・」といったような気弱な記述も残っています。

しかしそんな先の見えないトンネルはある“きっかけ”を境に脱出できることとなります。

それが夏期講習明けに実施された社長面談でした。

社長面談とは、新入社員5名とそれぞれの教育係とされる先輩社員5名の計10名の1グループが、週1回ずつ入れ替わりで社長と対話ができる機会です。

私は事前に先輩から「最初に司会の人が『社長に質問ある新入社員の方?』って聞くから、必ず一番最初に手挙げろ。あとお前、何言い出すか怖いから、事前に質問オレにメールしてオレがオッケー出したやつ質問しろ。」と言われていました。

新入社員として先輩からの信頼も抜群です。苦笑

私は先輩から言われた通りに事前に“質問”を伝え、オッケーをもらっていたのですが、当日、いざ社長に質問するタイミングになった途端、いまだになぜかは説明がつかないのですが、私は事前に準備した質問とは全然違う、その場でとっさに思いついたことを社長に質問してしまいました。

その質問とは、

「私は日頃から、何とか生徒たちにやる気になってもらおう、成績を上げてもらおう、と自分なりに手を尽くしているつもりですが、それでも現実問題としてなかなか宿題などをきっちりやってくれない生徒もいます。もし社長が教鞭をとられていた当時にそのような生徒さんがおられたとすれば、どのようにしておられましたでしょうか。」

というものです。


すると社長は即答でこうお話されました。

社長「重本、それな、お前の“かわいがり方”が足りんわ。」

私「・・・」






[24歳②:直感的にこれで食べていけると確信した。]

“生徒をかわいがる”

それまで「生徒の視点になる」とか「生徒にとってわかりやすい授業」という風な話は現場や本などから、よく聞くフレーズでしたが、「かわいがる」というフレーズを耳にしたのはこのときが初めてでした。今思っても、頻繁に出てきそうなフレーズですが、「お前は生徒をかわいがってない」と言われたのは意外にも初めてでした。

私の記憶では、社長がその後一気にヒートアップされ、秘書の方にホワイトボードを持って来させ、ペンでいろいろと書きながら説明して下さいました。1時間以上に渡って「かわいがる」というテーマで、かなり貴重な内容のお話をたくさんして下さいました。

ただ、とにかく要点としては1点のみで、生徒というのは「この先生は自分を可愛がってくれるのか?」ということに非常に敏感であるということでした。

どれだけ学力や喋りの素質があっても、生徒をかわいがれていない先生は支持されないのだということを多くの例を用いながら社長がお話される中、私は「これでオレはこの仕事で食べていける・・」という生涯で感じたことのないような気持ちに包まれておりました。自分に決定的に足りないものがそれであるということを直感的に感じ取ることができたのです。

今思い返しても不思議な体験でしたが、確かにあの社長面談を境に私はやっと塾講師なれたというのは間違いありません。

それはまず入社1年目の後期の生徒アンケートに如実に現れました。

それまで学生講師時代から、私は社員平均はおろか、学生講師平均すらも越えたことはなかったのですが、社長面談以降は常に悪くても社員平均を越えるレベルでアンケートは安定するようになりました。

しかしそんなこと以前にもっと決定的に変わったのは、生徒さんに対する考え方でした。

それまで成績面や関係性でいまひとつ良好になりきれていない生徒さんに対して、私は常に「なんでちゃんとやってくれないのか?」「どうすれば成績は上がるのか?」といったような問いばかりを自分の中に積もらせていました。

しかし、社長面談以降、正直そこまで強く意識しようとしたわけでもありませんが、自然と、本当に自然と生徒さん一人一人に対して「今日はどんな1日だったんだろう・・」とか「最近は機嫌良く過ごせているのかな??」といったことばかりを気にするようになっていきました。

その後今のスタンスに完全になるまで、いろいろな失敗も経て5、6年はかかりましたが、とにもかくにもそのときの面談が私の講師人生を大きく方向転換させたことは間違いありません。

“塾講師として食べていける!”と講師としてちょっとした自信を得たのはこのときが初めてでした。うん、どう考えても時間かかり過ぎです・・・苦笑



そうして講師としての“きっかけ”をつかんだ私は、このシーズンの終わり頃、正月休みで地元に戻った際に、究永舎の初代理系講師で、学生講師時代に同じ教室で働いていた後輩の中尾くんに「一緒に塾やらへんか?」と初めて独立開業の意志を伝えます。当時、中尾くんは全く別の道を考えていたのですが、意外にもその場で「やりましょう!」という返事をもらい、将来的には2人で塾を開こうということだけは早くも決まったのでありました。

ただ、まだまだこの当時は独立と言ってもお互いに30越えたあたりかな〜・・などというノンビリした感覚ではありました。

そうこうしているうちに私は入社2年目で西宮から神戸の岡本へ転勤となり、そこから一気に独立開業へのテンションは高まっていくのでありました。

いまだに究永舎の授業中にも話のネタにするくらい、この岡本での様々な人との出会いには刺激がありました。

次回以降、私の大手塾講師ライフの残り2年分をさらっと書いて、そろそろこの取り止めのないロングロング体験談も締めようかと思います。

すでにここまでお付き合い下さっている方とは、おそらく初対面でお会いしても、もはや私のことで話すことはほとんどありません。本当にありがとうございます。笑


[25歳:独立開業に向けて]
入社2年目。神戸の岡本にある教室勤務となりました。岡本の地に降り立つのは初めてで、正直、最初は「自分のキャラ的に、だ・・、だ、大丈夫か??」という不安はありました。

しかも当時のその教室は幼稚園児から灘を目指す子どもたちまでを担当するという非常に幅広い対応が求められており、今思ってもよく頑張ったと思います。笑

今の究永舎生の子なんかは私が年長さんや小学1、2年生の子たちの授業をしているなど想像もつかないと思いますが、これがまた楽しかったんですね。

チビッ子クラスの場合、ほぼ全てのご家庭の保護者様、特にお母様がお迎えに来られ、そこでいろいろお話させて頂くことで、これまで私の思考の片隅にも無かった部分ヘの刺激と経験が加わったのは今でも私にとって貴重な財産です。

さて、そんな新天地での塾講師ライフですが、これも今思えば個人的なポイントが3つほどありました。

まず1つ目は、入社2年目で社内の高校受験指導の講師の学力試験において前期後期合わせて英語で1位になれたことと、社内の東大京大入試問題検定において会社が設定した基準をクリアし、会社からお小遣いを頂いたことです。

今思っても、まだまだぶっちぎりでも何でもなかったのでマグレ要素有り有りでしたが、以前に述べましたように「お前は最低でも3年かかる」と言われてから2年弱でそこそこの学力にまで到達したので、入社に手を差し伸べて下さった先輩方は喜んで下さり、それが非常に嬉しかったです。

そしてこの出来事は「後は教室を回す流れを体得すれば独立できるな・・」と気持ちがそちらへさらに大きく切り替わるきっかけにもなりました。

次に2つ目です。実は私は、自分で究永舎を開校するまで教室責任者というものを経験したことがありません。ただこれも本当にラッキーだったのは、入社1〜3年目全てにおいて、教室責任者をされていた先輩方が揃って、会社全体に関わるお仕事を任される頻度が高かったため、本部に会議などで呼び出されたまま授業前まで教室に戻って来られないことが多く、教室全体を回すことに関わる業務を任されることが入社当初から非常に多かったことです。

特に岡本に移ってから2年目のときなどは、経理担当の事務パートの方がお休みがちで、ついにはそのまま退職され、教室の経理をはじめとした事務書類をさばいて下さる方が不在の時期が長かったため、そのあたりも私が対応することが多く、このことも結果的に「もうこれ自分で教室できるかも・・」と思えるきっかけになりました。

このことに限らず、勤務時代の上司の方みなさんが、「好きにせえ!」といったスタンスでいて下さり、失敗した時も決して責めることなく広い心で接して下さったことは当時から今までもずっとありがたく思っております。

最後の3つ目です。これは岡本独特と言いますか何と言いますか、はっきりと言えば “生活水準” が私が育った環境とあまりに違う生徒さんが多いというのも「早く独立したい。」という気持ちに拍車をかける強い刺激となりました。

雨の日には芦屋からタクシー(仕組みはよく分からないが料金は毎回払っているのを見たことがない)で通塾する小学生、よくよく見ると高級ブランドのリュックで通塾する中学生などは序の口です。

ある休みの日など、当時住んでいた家賃5万円の8畳一間の一室でコンビニ弁当片手に何気にテレビを見ていたら、“たむけんの社長のお宅拝見”で生徒さんのお家が映され、その豪邸の一部始終を見た次の日にその生徒さんを授業する気持ちには非常に複雑なものがありました。「オレみたいな鼻垂れ兄ちゃんが教えていいの?」みたいな。

ここで誤解の無いようにお伝えしておくと、私が感じていたのはお金の有無の話ではありません。そんなことははじめから分かっていました。(そこもだいぶ圧倒されたけれども・・・)

先述のような気持ちになる理由というのはそこではなくて、言葉を選ばずに言ってしまえば、「日頃は学生の子たちをまえに一丁前なことを言っている自分にはそもそも自力で稼ぐ力があるのだろうか??」という気持ちにあります。

「もし諸先輩方が築き上げられた“大手塾という看板”、いわゆる“虎の威”が無ければ一体自分にはどれだけの生徒さんや保護者様がついて下さるだろうか?」という自分への疑問がこの頃から非常に大きくなっていたのです。

私は昔から今に至るまで、個人的には子育て・学校(塾)の究極的な目標は「生徒さんの自立」にあると思っています。もし明日から自分の親がいなくなっても生きていける状態になるということです。

しかしそもそも、そんなことを言っている自分の自力とはどれくらいのものなんだろう?という気持ちが日に日に強くなっていたのです。

まとめると、一塾講師として「これからますます伸びてそこそこやっていけるんじゃないか?」という自分への期待が高まり、かつ、教室を回していくというのがどういったことなのかとうことをひとしきり知ることができたと思えた私は、入社2年目の末頃には「自分の力を試してみたい・・」という気持ちが抑えられなくなっていました。


そして入社3年目の6月。

いよいよ私は当時の直属の上司の方に、シーズン末での退社の意向と、その理由として、独立して自分で教室をやってみたいという旨を伝え、学生時代から長らくお世話になった会社でのラストシーズンを過ごしていくのでありました。



[26歳:退社、そしてついに究永舎開校へ]
「なんで会社やめたんですか?」

おそらく一度でも“退社”という行為を行なったことがある人なら誰だってその後の人生において複数回この質問はされると思います。私もそうです。

私の場合はすでに述べたものも含めて理由が3つあります。

①とにかく素の自分の力を試したかったこと。
②自分が教室ユーザーの方に出すオファー内容を会社に強要されたくなかったこと。(でも社員だったら仕方ない!)
③経済面を他者(会社)に握られたくなかったこと。

比率で言えば①:②:③=6:2:2です。

より高い抽象的な視点で見ると結局は①が全てという見方もできます。

会社や先輩方に対しては今も感謝しかありません。

おこがましいのですが、今でも究永舎の卒業生で「個別指導のバイトをしたい。」と言う子や、過去に出会った転職活動中の塾講師の方などにはお薦めするくらいです。

これを書いている今、私が当時の先輩方の年齢になって改めて本当によくして頂いたことを実感しております。

余談ですが、独立後、採用活動を行う中で様々な塾講師の方のそれぞれの勤務先の実態をお聞きするにつけ、つくづくいい会社だったんだな〜と痛感致しました。間違いないです。笑

なにはともあれ2008年3月1日を最後の勤務日として私の大手塾講師ライフは終わりを遂げます。当時の会社の方針で、良くして頂いた教室ユーザーの皆様には何のご挨拶も無しに去ってしまったことは今でも申し訳なく思っています。また、何年か後に究永舎を見つけ、わざわざ豊中まで訪ねて下さった生徒さんや保護者様には今でも深く感謝申し上げる次第でございます。

さて、退社後は早速開校準備にとりかからねばなりません。

ここの箇所も詳しく書こうと思えばいくらでもネタは溜まっているのですが、おそらく「独立しようかな〜」と思っている塾講師の人くらいしか関心はないかもしれませんので詳細は割愛させて頂きます。

ただなぜ今の場所で開校したのか?ということについては触れておきたいと思います。

当初、開校場所としては次の条件に全て当てはまるところで探し始めました。

①保護者様に以前の勤務先のブランドが通用しないところ。
②競合塾が多い受験熱の高いところ。
③トイレが2つあるところ。
④できれば眺めの良いところ。

①と②についてはこれまで書いてきた通りです。

開校すれば絶対に「以前はどちらで?」と聞かれることはあるはずです。そのときに隠してしまうと「この人、前の会社で何かやらかしたんかな?」とか思われて不審がられるのも嫌でしたし、かと言って、塾名を出して「あ、あそこでやってたんですね。」と威光がチラつくのも私としては面白くありません。また、競争が激しい方が自分の実力を測るのにも適していますので、①②は絶対でした。
(ちなみに2010年代後半以降は私がお世話になった塾も究永舎近辺に立て続けに開校しています。)

③も絶対ですね。塾で男女兼用とか嫌じゃないですか。

④はオマケですね。ですが結果的に叶って超ラッキーです。

みなさんそうかもしれませんが、この、「場所選び」については本当に苦労しました。とりあえず前記の理由から北摂に場所は絞れていたのですが、3〜5月にかけて、決まりかけのところまでいったところが2つ立て続けに契約が叶わず、「もう無い・・・」とガックリきていたところで、不動産屋さんから紹介して頂いたのが今のところです。

即決でした。即決理由は③④とオーナーです。笑

場所が校区的にもめちゃくちゃ恵まれているところだというのは後から気付きました・・・

そんなこんなでついに場所も決まり、その後は順調に内装、看板設置、備品搬入、チラシの手配と事は進んでいき、いよいよ6月15日に教室開き、そして6月16日にチラシ投下という流れでした。




2008年6月16日。

当時のチラシには9時に受付と記載していたため、私は9時前から電話の前に張り付いておりました。何度も携帯から教室の電話にかけてキチンと電話が鳴るか確認します。笑

そうこうしているうちについに9時になりました。

・・・。

・・・。

電話は全く鳴りません。

自分の教室のチラシを自分で作って自分で手配して電話を待つなんてことは生まて初めてです。

「やっぱりこんな『誰やねん?』みたいなところに電話かける人なんていないか・・・」そんな考えも頭をよぎります。

思えば、勢いだけで行ったアルバイトの採用面接と筆記試験から全てが始まったよな〜・・・そんな取り留めのないことを考えつつひたすら電話とにらめっこです。

・・・。

・・・。

電話は鳴りません。


「まぁ、初日から電話は鳴らないか・・」

そう思って、電話を待つのをやめて、本でも読もうとカバンから本を出そうとしたそのとき、




プルルルルル・・、

プルルルルル・・、






私の全身が固まります。
心臓が爆発するとはまさにこのことです。

2008年6月16日9時29分。

当時13中の中学2年生の女の子のお母様からお電話を頂き、その後お友だちもお誘い頂いて卒業まで通って下さいました。

今もあの感動は忘れられません。

それが、究永舎のはじまりです。







というわけで、以上、ここまでが、『究永舎開校までの話』です。

いや〜・・、予定の100倍くらい長くなっちゃいました!
いくらなんでも長過ぎだろうと・・・すいません。

私が親で子どもの塾を探すとしたら、先生はやはりどんな人なのか?というのが一番気になります。そういった考えから、塾探しをされている方が「どんな塾なんだろう?」という手がかりの1つになったら面白いかな〜・・などと思って書き始めました。(長過ぎになったのはホントにごめんなさい)

いやはやここまでお読み下さった方には、お付き合い下さり本当に感謝申し上げます。もし少しでもご興味お持ち頂けるようでしたら、

保護者様は→究永舎へのお問い合わせ

独立を考えており、その詳しい段取りを参考にしたい方(笑)は→ kyueisya@gmail.com

までご連絡下さい。

また、最後になりましたが、これまで私の授業に通って下さった生徒の皆様、そして保護者の皆様、ご指導ご鞭撻下さった全ての塾関係の皆様には改めて感謝申し上げます。

これからも重本孝および究永舎をよろしくお願い致します。